古代の居住地(開拓地)の南方には、巨大な巡礼施設がありました(図1)。
近年部分的な発掘が進められ、周囲を円柱で囲まれた巨大な建築物は、巡礼者のための中央集会場に使われた場所であることがわかっています。
集会場の周りには、さまざまな目的で使用された建築物があり、北部には、南の殉教者教会に詣でる巡礼者のためのホテルがありました。
巡礼施設のメインゲートは大バジリカの北側にあり、ホテルから続く広い参道の到達点である広場に向かって開いています。この参道は、部分的な発掘が行われています。
凱旋アーチは、両側を円柱がある通りにつながっています(円柱があるのは通りの最初のほうだけ)。この通りは、北部施設・中央道に通じるいくつかの小道にもつながっていると考えられています。ほかのもっと小さな門からつながる通りは、東西のコンプレックスにつながっていました。
初期のバジリカの南側には、半円形の建物が建てられています。また、境界壁は、教会の聖廟の近くに埋葬されたいと願った巡礼者の墓域と施設を隔てたものです。
北端にある集会場の外側には、村があったようです。それは、主に小さな泥レンガの建物で、商店や工房で構成されていました。ただし、これらの建物の表玄関だけは石造で作られています。ここで見られる切石に泥のモルタルで建てられている家は、後の時代のものです。
このエリアには、2つの大きな浴場(ダブル浴場<図6>と北の浴場<図8/かつて誤って宮殿と思われていた>)もありました。その東には、南に
アプスを持ったもう一つの遺跡があり、しばしばガーデンチャペルと間違えられましたが、たぶんこれがかつて宮殿の一部であったのかもしれません。
道路跡は、復元することはほとんど不可能です。上記で触れた参道の向こう側、浴場近くには昔の道路跡があり、同時代のローマ道ように、これらもまた側面を円柱で形成されています。また、いくつかの通りは、円柱と角柱、交互に置かれていました。
初期の防御壁の痕跡は、居住地の北部や北西部で見つかっています。とはいえ、この壁についての正確な調査は、いまだなされていません。それでも、その遺構が広範囲に、取り囲むようになっているのはわかります。そのうえ、明らかに無人のエリアまで取り囲んでいるようです。門の遺構もまた、
施設の北部で見つかっています。
その中でも北へと続く壁は、北のバジリカのものでしょう(図8)。これは教会と、おそらく聖メナスの殉教を記念する祭礼を行う空間、司教が居住するための生活地区が合わさった複合建造物だったようです。
★いちばん上へ